クリストバル・バレンシアガの生涯と創業
クリストバル・バレンシアガ・エイサギレは1895年、スペイン・バスク地方の漁村ゲタリアに生まれた。幼いころから裁縫に親しみ、11歳のときに地元の貴族女性カサ・デ・トーレス侯爵夫人のドレスを見本に縫製を申し出たという伝説的なエピソードが残る。侯爵夫人はその才能に感嘆し、サン・セバスティアンで一流の仕立て職人のもとへ彼を送り出した。
1917年、22歳でサン・セバスティアンに自身の店を構えた。スペイン王室をはじめとする上流階級の顧客を獲得し、マドリードとバルセロナにも店舗を拡大した。しかし1936年、スペイン内戦の勃発がすべてを変えた。内戦の混乱でスペインの店舗はすべて閉鎖を余儀なくされ、バレンシアガはパリへと活動の場を移した。
1937年、パリのジョルジュ・サンク大通り10番地にメゾン「バレンシアガ」を開いた。オートクチュールの黄金時代の真っ只中、スペインの職人魂を携えた新参者は、パリのファッション界に静かに革命を起こし始める。
「クチュリエのクチュリエ」の技術と哲学
バレンシアガはその卓越した技術から、ファッション業界で「クチュリエのクチュリエ(仕立て師の仕立て師)」と称された。ライバルであるはずのココ・シャネルが「本物のクチュリエは彼だけ。他はみんなデザイナー」と言い切ったという言葉は有名だ。クリスチャン・ディオールも彼を「私たちの師匠」と呼んだ。
彼の作品が他と一線を画した理由は、デザインだけでなく構造への圧倒的なこだわりにあった。パターン(型紙)の引き方、生地の選択、縫い合わせ方に至るまで、すべてを自ら手がけた。肩の構造を一変させた「バレンシアガ・スリーブ」、ウエストを締め付けずに体を包む「サック・ドレス(1957年)」、腰から丸く膨らむ「バルーン・ジャケット(1953年)」——いずれも当時の常識を覆すシルエットだった。
使用する素材にも独自のこだわりがあった。ガザール、クレープ、グログランなど、動きと形の維持を両立できる素材を好んで用いた。スペインのカトリック文化から影響を受けた厳粛で彫刻的な美意識は、フリルや過剰な装飾を排した端正なラインに現れている。
1960年のベルギー王妃ファビオラ婚礼ガウンは、その集大成ともいえる作品だ。アイボリーのシルクで仕立てられたロングスリーブのドレスは、バレンシアガの構造美が国際舞台で証明された瞬間として今も語り継がれる。
突然の引退と「空白の時代」
1968年5月、バレンシアガはメゾンを突然閉鎖した。プレタポルテ(既製服)の台頭、学生運動などに象徴される社会的変革、そして自身の老いに伴う品質への不安——複合的な理由から、73歳のバレンシアガは「オートクチュールはもはや不可能だ」という言葉を残して引退を宣言した。
その4年後、1972年3月23日にバレンシアガはバレンシアで76歳の生涯を閉じた。彼の死とともに、オートクチュールの黄金時代が完全に幕を閉じたとも言われる。
その後、メゾンは1986年に復活を試みたが低調に終わり、1990年代まで長い眠りについた。世界中のファッション史家がその卓越した技術を讃えながらも、ブランドとしてのバレンシアガはほぼ忘れられた存在となっていた。
ニコラ・ジェスキエールによる再生(1997〜2012)
転換点となったのは1997年、25歳のニコラ・ジェスキエールのクリエイティブ・ディレクター就任だ。創業者の遺したアーカイブを緻密に研究しながら、SF的な未来感覚と解体された仕立てを組み合わせたコレクションで業界の注目を集め始めた。
2001年前後に発表した「シティ・バッグ(モーターサイクル・バッグ)」は、バレンシアガの存在を世界に広めたターニングポイントだ。ゆったりとした柔らかいレザー、複数のポケット、バイクのパーツを想起させるメタルパーツ——機能美と審美性を両立させたこのバッグは瞬く間に世界のセレブリティを虜にし、今なおブランドを象徴するアイコンであり続ける。
ジェスキエールはバレンシアガをラグジュアリーの最前線に押し上げた功績者として高く評価される一方、2012年に会社との方向性の相違からバレンシアガを離れ、翌年ルイ・ヴィトンのウィメンズ部門に移籍した。
アレキサンダー・ワン期(2012〜2015)
ジェスキエールの後任には、ニューヨーク発のストリートウェアシーンで頭角を現したアレキサンダー・ワンが2012年に就任した。スポーツウェアの機能性とラグジュアリーの素材感を掛け合わせたアプローチで注目を集めたが、2015年に3年間の在任を経て退任した。在任期間が短く評価の分かれる時代ではあったが、その後に続くデムナの革命への「助走」として位置づけられることが多い。
デムナ:価値を問い続ける革命(2015〜2025)
2015年、ジョージア(グルジア)出身のデムナ・ヴァザリアがクリエイティブ・ディレクターに就任した(2021年以降は名の「Demna」のみを使用)。ヴェトモンの共同創業者として、ロゴの大きなスウェットシャツやオーバーサイズのシルエットで業界を席巻していたデムナは、その美意識をバレンシアガに持ち込んだ。
ダッドスニーカーの元祖ともいえる「トリプルS(2017年)」、コンビニのレジ袋を模した高額なハンドバッグ、クロックスとのコラボレーション、フォートナイトやシンプソンズとのデジタルコラボ——デムナは意図的に「普通」「醜さ」「ダサさ」を高級品として提示し、ラグジュアリーの定義そのものを問い直した。「ブランドはいかにして価値を持つか」という問いを市場に投げかけ続けるその姿勢は、批評家から絶賛と激しい批判を同時に浴びながら、バレンシアガを世界で最も議論されるブランドへと押し上げた。
2022年には広告キャンペーンをめぐる大規模な炎上事件が起きた。テディベアをモチーフにした映像が児童搾取を想起させるとして世界的な不買運動に発展し、デムナ自身も公式に謝罪した。しかし翌2023年以降、デムナは自身のジョージアでの戦争体験や難民経験を公に語り始め、作品のパーソナルな背景を再提示した。批判を経ながらも高い認知度を維持したデムナは、2025年春に同じKering(ケリング)グループのグッチのクリエイティブ・ディレクターに転じ、10年にわたるバレンシアガでの章に幕を下ろした。
ピエールパオロ・ピッチョーリの新章(2025〜)
デムナの後任として2025年7月に就任したのが、イタリア人デザイナーのピエールパオロ・ピッチョーリだ。ヴァレンティノで16年にわたりクリエイティブ・ディレクターを務め(2008〜2024年)、そのロマンティックで官能的なオートクチュールによって同ブランドを現代ラグジュアリーの最前線へ押し上げた人物として広く知られる。
ヴァレンティノ退任から約1年のブランクを経ての就任は、業界に大きな驚きをもって受け止められた。ケリング副CEOのフランチェスカ・ベッレッティーニは「オートクチュールへの精通、創造的な声、そしてサヴォワフェールへの情熱が、彼をこのメゾンに最もふさわしい人物にした」とコメントした。
コンセプチュアルな挑発を続けたデムナの時代から一転、ピッチョーリがどのようなバレンシアガを提示するか——創業者クリストバルが体現した「構造の美学」と自身のロマンティシズムをどう融合させるか——ファッション界が固唾を飲んで見守っている。