1981年パリ:凍りついたプレス席

1981年10月、パリ。コム・デ・ギャルソンの初パリコレクションが始まった瞬間、プレス席は静まり返った。モデルたちが纏っていたのは、黒一色の、穴の空いた、意図的に解体されたような衣服だった。ウエストラインも、肩のラインも、従来のシルエットを参照しないシルエット。完成されることを拒んだかのような、しかし確固たる意志を持つ服。

ファッション界の反応は真っ二つだった。「ヒロシマ・シック」「貧しさのファッション」といった批判的な呼称で報じるメディアもあった。そしてそこに、西洋ファッションが長年見て見ぬふりをしてきた根本的な問いを読み取り、興奮した者。その日を境に、ファッションは変わった。

東京、1969年:「服を作る」という選択

川久保玲は1942年、東京に生まれた。慶應義塾大学で美学・文学を専攻し、旭化成の宣伝部を経て、1969年にコム・デ・ギャルソンを設立した。デザインの専門教育は受けていない。それが後に、彼女の強みになる。

「服の作り方を知らないからこそ、服について本質的に考えられた」——そう語られることもある。既存の服飾教育が埋め込む「美しさの文法」を持たない彼女は、最初から別の問いを立てることができた。「服は人体を美しく見せるためにあるのか?」「そもそも、なぜ服は人体に寄り添うべきなのか?」

コム・デ・ギャルソンという名は、フランス語で「少年のように」を意味する。ジェンダーを横断し、確立された「女らしさ」の文法を拒む、このブランド名自体がすでに宣言だった。

黒の革命:「欠如」を美学に変える

1981年のパリコレ以降、川久保玲の評価は急速に高まった。彼女が持ち込んだのは「ないこと」の美学だった。

装飾がない。フィットがない。完成がない。女性的な曲線がない。通常のファッションが「あること」で価値を作るのに対し、コム・デ・ギャルソンは「ないこと」で価値を生んだ。黒は「色のなさ」ではなく、色の先にある純粋な問いの色だった。穴は「欠陥」ではなく、人体と衣服の関係への問いだった。

ロラン・バルト的に言えば、従来のファッションが記号を重ねることで意味を作るとすれば、川久保玲は記号を剥ぎ取ることで「記号以前の何か」に触れようとしていた。それは西洋の美学に対する東洋からの、あるいは普遍的な問いかけとして機能した。

身体の再発明:ランプス&バンプス

1997年春夏コレクション、通称「ランプス&バンプス」は、川久保玲のキャリアの中でも特に論争的な作品として記録されている。

ダウンパッドで意図的に変形させた身体——肩、背中、腰、腕に、不規則な膨らみを持つシルエット。モデルたちは「正常な」人体のプロポーションを失い、見る者に強烈な違和感を与えた。「奇形」「醜い」という批判が殺到した一方で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)はこのコレクションの作品を永久コレクションに収蔵した。

ファッションか、アートか——この問いを最も先鋭に体現したコレクションだった。川久保玲はこれを「布と身体の出会い、その新しい可能性」と語っている。人体は服のための土台ではなく、服と対話する主体である——その思想の具現化だった。

コム・デ・ギャルソンというエコシステム

川久保玲のビジョンは一つのブランドに収まらなかった。

コム・デ・ギャルソン本体のほかに、より商業的なラインとして展開された「コム・デ・ギャルソン・コム・デ・ギャルソン(コムコム)」「コム・デ・ギャルソン・プレイ」(あの有名なハートロゴのライン)、メンズラインの「コム・デ・ギャルソン・オム」。そしてコラボレーションの無限の展開——ナイキ、コンバース、ルイ・ヴィトン、シュプリーム、ラコステまで、その振れ幅は驚異的だ。

2004年にはロンドンのメイフェアに「Dover Street Market」をオープンした。ここは単なる複合セレクトショップではなく、川久保玲のキュレーションによる「市場」だ。コム・デ・ギャルソンの全ラインに加え、同社が価値を認めるブランド——ゴーシャ・ラブチンスキー、シモーネ・ロシャ、J・W・アンダーソンなど——が一堂に会し、従来のセレクトショップのあり方に大きな影響を与えた。DSMはその後、東京(銀座)、ニューヨーク、ロサンゼルス、北京、シンガポールへと展開している。

MET美術館が選んだデザイナー

2017年、ニューヨークのメトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートは「川久保玲/コム・デ・ギャルソン:ビトウィーン(その間)」展を開催した。存命中のデザイナーを主役とした同企画は、1983年のイヴ・サンローランに次いで史上2例目という異例の格式だった。

展示は服を「物体」としてではなく「思想」として見せた。川久保玲が半世紀にわたって問い続けた「服とは何か」という命題が、美術館という文脈で改めて問い直される場となった。ファッションと美術の境界が最も高いレベルで溶けた瞬間の一つだったと言える。

同展はファッション展としては異例の来場者数を記録し、川久保玲の影響力を美術史の文脈でも決定づけた。

「エクスプレッション・ノット・ファッション」

川久保玲はインタビューを極端に嫌うことで知られる。作品について多くを語らず、語ったとしても短い。しかしその言葉は常に明快だ。

「私はファッションを作っているのではない。表現を作っている」

この言葉は、コム・デ・ギャルソンの全てを説明する。シーズンのトレンドに従う気はない。売れる服を計算する気もない(ただし、商業的成功を無視しているわけでもない)。彼女が毎シーズン問うのは、「今、この瞬間に、まだ誰も見たことがない何かを作れるか」という一点だ。

夫でありビジネスパートナーであるエイドリアン・ジョフィ(現コム・デ・ギャルソン社長)との関係も、この哲学を支える重要な柱だ。川久保が「表現」に集中できるのは、商業面の構造をジョフィが担うからでもある。

後継者という問い

川久保玲は現在80代。コム・デ・ギャルソンの後継者問題は、ファッション業界が長らく注目してきたテーマだ。

現時点で彼女は明確な後継者を指名していない。ブランドの複数ラインは各デザイナーが担当しているが、「川久保玲のコム・デ・ギャルソン」を継ぐ者は誰か——この問いに答えは出ていない。あるいは、川久保玲だから生まれたこのブランドは、川久保玲とともにその形を終えるのかもしれない。シャネルがガブリエルを超えてブランドになったように、コム・デ・ギャルソンも「川久保玲」を超えて続くのか。それとも。

いずれにせよ、川久保玲が半世紀をかけてファッション界に残した問い——「服とは人体を美しく見せる道具なのか?」「美しさとは誰が決めるのか?」「ファッションはアートになれるのか?」——は、彼女の引退後も、ファッションを考える者すべての前に立ち続けるだろう。

「なぜ服を作るのか」への答え

川久保玲のデザインは、答えを提示しない。問いを形にする。

それが「美しくない」と言われても構わない。「売れない」と言われても(実際には多くの商業的成功を収めているが)構わない。重要なのは、それが「まだ存在しなかった何かであるか」だけだ。

ファッションが本質的には「着るもの」であり「見られるもの」であるという制約の中で、川久保玲は常にその制約の縁を歩き、時に越えてきた。1981年のパリで凍りついたプレス席の記者たちは、気づいていたかもしれない——これは服の話ではなく、人間の話だと。自分たちが何を美しいと思い、何を醜いと感じ、その判断はどこから来るのかという、ずっと問われるべきだった問いへの挑発だと。

その挑発は今も、届き続けている。